
知らないということ、そして伝えるということ
ワールドカップ日本順調ですね。
試合前に流れる「君が代」
森保監督ではないかもしれませんが国際舞台での君が代を聞くと日本人としても心が動きます。
選手たちが肩を組み、胸に手を当て、あるいは大声で歌い上げる姿。
日本の国歌は暗い、好きではない、という声を時々耳にします。
試合後のSNSでこんな投稿をみました。
「旦那が日本の国家はなんだか暗いんだよね」
たしかにテンポがゆっくりで、どこか物悲しく聞こえるかもしれません。
そういう印象を持つ方が一定数いることは知っています。
その印象はどこから来たのでしょう。
まずは歌詞を見てみましょうか
君が代の歌詞はわずか三十二文字。
世界で最も短い国歌のひとつだと言われています。
君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
たったこれだけです。
多くを語らず短い言葉の奥に深い思いを宿らせるのが、日本の歌の特徴。
その奥に何が込められているのかを知らなければこの歌は本当には聞こえてきません。
一行ずつ辿ってみたいと思います。
「君」とはいったい誰なのか
君が代の「君」を天皇のことだと言われることがあります。
しかしこの歌が生まれた平安時代「君」という言葉はそんなに狭いものではありませんでした。
主君のことも、父母のことも、友のことも、そして愛する人のことも、すべて「君」。
君が代の元になった歌は、古今和歌集の「賀歌」というお祝いの歌を集めた部立に「我が君は」という言葉で始まる一首として収められています。
この賀歌の部に収められた歌の中に、天皇への祝いだと特定できる歌が一つもありません。
祝われているのは誕生日を迎えた親王であったり、長寿を迎えた身近な人であったりします。
つまりこの歌の本質は国家や権力を讃える歌ではなく、目の前にいる大切な誰かへ贈るお祝いの歌だったのです。
千年前の日本人が歌った世界でいちばん古い誕生日の歌だと言ってもいいかもしれません。
事実、この歌は時代を下るにつれて長寿を祝う席だけでなく、男女の永遠の契りを願う恋の小唄としても歌われるようになりました。
あなたとの時がいつまでも続きますように。
そう願う恋人たちの歌でもあったのです。
君が代が愛の歌であるというのはこの歌が歩んできた歴史そのものが示していることです。
もう一つの「君」
キミにはもう一つの読み方があります。
古い大和言葉からみてみましょう。
「キ」は、伊弉諾神(いざなぎのかみ)の「キ」。
「ミ」は、伊奘冉神(いざなみのかみ)の「ミ」。
キは男を、ミは女を表す音であると古くから受け継がれてきました。
この国を生んだとされる男神と女神の名に通じる「キ」と「ミ」が結ばれて「キミ」という一つの言葉になっています。
つまり「君」とは男と女が結ばれた姿そのものであり、古い大和言葉ではそれがそのまま「人」を表す言葉でもあったと言われています。
この読み方に立つと君が代の「君」とは、特定の誰かである前に、男と女が結ばれて命をつないでいく営みそのものを指していたのではないかと思えてきます。
あなたとあなたが結ばれて子が生まれ、その子がまた誰かと結ばれて命が世代を越えて受け継がれていく。
その尽きることのない命の連なりが千代に八千代に続きますように。
実は君が代とはそういう祈りの歌なのです。
これは学者が辞書で定める意味とは違う、古い神道の心に根ざした受け取り方ですでの教育界からは否定されるかもしれません。
けれど言葉の音そのものに意味が宿ると考えてきた日本人にとって、こうした読み方は根拠のない空想ではありません。
言霊の世界に立ってみると君が代は命そのものを祝福する歌として聞こえてくるのです。
さざれ石はなぜ「祈り」になるのか
「さざれ石の巌となりて」。
ここがこの歌の最も奥深いところだと私は感じています。
さざれ石とは、小さな石のことです。
その小石が長い年月をかけて大きな巌、つまり大岩になる。
普通、私たちが目にする自然は大きなものが小さく砕けていきます。
岩は崩れて石になり石は砕けて砂になる。
時の流れとは本来そうやってものが朽ち、ばらばらになっていく方向に進むものです。
ところがこの歌はその逆を願っています。
ばらばらの小石が時をかけて寄り集まり、固く結びついて一つの大きな岩になっていく。
これは自然の流れに逆らう願いです。
しかもただの空想ではありません。
小さな石が長い時間をかけて石灰質などで結びつき本当に一つの大きな岩の塊になる。
そうした石は実在し各地の神社で「さざれ石」として祀られています。
私は神社を巡るのが好きなので、こうしたさざれ石に出会うたびに足を止めて見入ってしまいます。
個々の小さな石が、それぞれの形を保ったまま固く一つに結びついている。
そこに私は人と人との結びつきを見ます。
一人ひとりは小さな存在でも世代を越えて寄り添い、支え合い、やがて誰にも崩せない確かなものになっていく。
さざれ石が巌になるという願いはそういう人の絆の永続を祈る言葉でもあるのだと思っています。
苔が生すまでの長い時間
そして歌はさらにその先を願います。
「苔のむすまで」。
小石が大岩になるだけでも想像を絶する時間が必要です。
その大岩の表面にさらに苔が生してくるまで。
この歌は永遠とほとんど同じ長さの時間を二重に重ねているのです。
なぜ、ここで苔なのでしょうか。
苔は激しく自己主張する植物ではありません。
静かで、控えめで、しっとりと深い緑をたたえています。
そして苔は長い時間、傷つけられず踏み荒らされず、穏やかに守られてきた場所にだけ生すものです。
古い神社の境内や手入れの行き届いた庭に広がる苔を思い浮かべてみてください。
あの緑は長く平和な時間が続いたことの証です。
苔が生すまで、という言葉にはそれほどまでに長く、穏やかで争いのない時間が続きますように、という祈りが込められています。
戦いの中では苔は生しません。
苔が生すということ自体が平和の姿なのです。

そして、神に捧げられた歌
もう一つ触れておきたいことがあります。
この君が代の原型となった歌は福岡県の志賀海神社に伝わる神楽歌にさかのぼるとも言われています。
神楽歌とは神様に捧げるための歌です。
もしそうであるなら、この歌のいちばん深い根には神様への祈りがあることになります。
私は毎朝、神社にお参りをしますが、そこで手を合わせるとき特別なお願いごとをするわけではありません。
ただただ、感謝を伝えるだけです。
祓へ給ひ 清め給へ
神ながら 守り給ひ 幸へ給へ
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
いつもそれだけです。
君が代に流れているのもそれとよく似た心だと感じます。
何かを要求するのでも誰かに勝つことを願うのでもなく、大切なものが末永く続くようにと祈りそれを神様に届ける。
この歌の根にあるのはそういう静かな祈りの心です。
つなげてみると見えてくるもの
ここまでをつなげてみます。
大切なあなたが、千年も八千年も。
小さな石が寄り集まって大きな岩となり、その岩に苔が生すまで。
そんな永遠に近い時の果てまで、穏やかに健やかに続いていきますように。
ここにあるのは
愛する人への祝福であり、
人と人との絆への祈りであり、
命の連なりへの願いであり、
争いのない平和な世への願いであり、
そしてそれらすべてを神に捧げる感謝の心です。
誰かを倒す言葉も勝利を誇る言葉も敵を呪う言葉も、ここにはありません。
私はこれを世界に類を見ない愛と平和の歌だと感じています。
他の国の国歌に目を向けてみると
では、他の国の国歌はどうなのでしょうか。
世界の国歌を調べてみるとその多くが独立戦争や革命の中で生まれていることに気づきます。
フランスのラ・マルセイエーズは、フランス革命の戦いの中で作られた歌で勇ましい旋律の裏で、その歌詞には敵の血や、武器を取れという激しい言葉が並びます。
オランダの国歌もスペインからの独立を求めた戦争を背景に生まれました。
世界には、戦いの記憶や敵への対抗心を歌い込んだ国歌が少なくありません。
それぞれの国には、それぞれの歴史がありその歌が生まれた理由があります。
私はそれらを否定したいわけではありません。
ただそうした国歌と並べてみたとき、君が代の静けさと祈りの深さがいっそう際立って見えてきます。
事実、君が代は海外でも高く評価されてきました。
明治の時代に行われた世界の国歌の品評会で君が代が高い評価を受けたという記録も残っています。
雅楽の流れをくむ穏やかな旋律は世界のどの国歌とも違う落ち着きを持っています。
暗いのではなく知らなかっただけ
君が代を暗いと感じてしまう背景には、戦後の長い時間の中でこの歌が戦争を想起させるものとして扱われ、どこか大切にされてこなかった時代があったことも関係しているように思います。
歌そのものの意味を教わらないまま、ただ音だけを覚えて育った人も多いのではないでしょうか。
意味を知らなければゆっくりとした旋律はただ重く聞こえるかもしれません。
けれど、いま一行ずつ意味を辿ってきたように、あの歌が千年の時を越えて受け継がれてきた祈りの歌であり命の連なりと相手の幸いを願う愛の歌だと知ったとき、同じ旋律がまるで違って聞こえてくるはずです。
暗いのではなく深いのです。
自分の国の歌の本当の意味を知らないまま、なんとなく好きではないと感じてしまうのはもったいないことです。
価値は伝えなければ伝わらない
ここまで君が代について書いてきましたが、私がこの歌から改めて教わったのは、どれほど価値のあるものでもその価値は伝えなければ伝わらないということです。
君が代は千年以上の歴史を持ち、世界でも高く評価されてきた歌です。
意味を知らされてこなかったというだけで暗いし、好きではないと思われてしまう。
これは歌に限った話ではありません。
商品でも、サービスでも、お店でも、どれほど中身が優れていても、その価値が相手に届く言葉で語られなければ無いのと同じように扱われてしまいます。
私は仕事柄、中小企業のホームページや情報発信のお手伝いをしていますが、多くの経営者の方が自社の本当の強みを言葉にできずにいます。
長年かけて磨いてきた技術、他にはない誠実な仕事やお客様への思い。
本人にとっては当たり前すぎてわざわざ語る価値があるとは思っていない。
語られなければ、それは誰にも知られないまま埋もれていきます。
君が代の意味が知られないまま暗いと思われてきたのと同じことです。
ホームページをつくるという仕事は、ただ見栄えのいいページを並べることではありません。
デザインという仕事はただカッコのいいものを作ることではありません。
その会社が持っている本人さえ気づいていない価値を掘り起こし、お客様に届く言葉に翻訳して伝わる形にすること。
私はそこにこの仕事のいちばんの意味があると思っています。
知らないことは知ればいい。
伝わっていないことは伝えればいい。
君が代がそうであるように、あなたの会社にもまだ言葉にされていない価値が必ずあります。
それを掘り起こし伝わる形にするお手伝いができればと思っています。

株式会社ガイネット代表取締役 趣味は神社仏閣巡り 初めてホームページを作ったのは20年以上前。そこから2社ほどで修行し33歳でフリーランスに、色々あって今さら法人設立。WEBとデザインの何でも屋であり書家でありYouTuberです。