FIFAワールドカップが教えてくれる日本人の優位性

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ワールドカップが始まりました。

日本代表は初戦で強豪オランダと対戦し、2度のビハインドを追いついて2-2の引き分け。

早朝のテレビの前で、思わず声を上げた方も多かったのではないでしょうか。

私もその一人でした。

けれども、今回のワールドカップで私が一番心を動かされたのはピッチの上の出来事ではありませんでした。

試合が終わった、そのあとの光景だったのです。

選手たちが去ったあとのロッカールーム。

床にゴミひとつなく、タオルやビブスはきれいに畳まれボトルは一カ所に整然と並べられていました。

その写真を、海外のメディアがこぞって取り上げたのです。

スタンドでは日本のサポーターが青いゴミ袋を手に、自分たちが座っていた席のまわりを回り、紙くずやペットボトルを拾い集めていました。

誰かに頼まれたわけでもなく、当たり前のように。

今日は、その光景から私が感じたことを、少し書いてみようと思います。

サッカーの話ではありません。

これは結局のところ、生き方の話であり、仕事の話でもあると、私は感じたからです。

誰も見ていない場所での、ふるまい

ロッカールームというのは、観客には見えない場所です。

カメラも基本的には入りません。

試合に負けて悔しい思いをした直後、誰に見られるわけでもない部屋で、選手たちは黙々と片づけをして出ていく。

これは今に始まったことではありません。

2018年のロシア大会では、敗退したあとのロッカーにロシア語で「スパシーバ(ありがとう)」と書かれたメモと折り鶴が残されていました。

2022年のカタール大会でも、勝った試合でも負けた試合でも同じ光景が繰り返されたのです。

森保監督は、かつてこの清掃についてこう語っていました。

「日本人にとって日常だ。特別なことではない」と。

この「特別なことではない」という言葉に、私はしばらく考え込んでしまいました。

誰も見ていないところで、なぜ人はきちんとふるまえるのか。

見られていないなら、手を抜いてもバレないはずなのに。

そこで思い出したのが、私たちが昔から大切にしてきたある考え方でした。

お天道様が見ている

「お天道様が見ているよ」

子どものころ、悪いことをしようとすると、祖父母や親からこう言われた覚えがある方は多いと思います。

誰も見ていなくても、お天道様、つまりお日様だけは、あなたの行いを見ている。

だから、人が見ていようがいまいが、恥ずかしくないように生きなさいという教えです。

これは、誰かに見られているから正しくふるまうという発想とは根本が違います。

見られているかどうかではなく、自分自身が自分の行いをどう見るか。

その物差しが、心の内側にあるかどうかの話なのです。

私はほぼ毎朝、神社に参拝する習慣があります。

旭川でも札幌でも、その日いる場所の近くの社に手を合わせてから一日を始めます。

誰かに見せるためではありません。

ただ、自分の背筋を整えるために、そうしているのです。

神社の前で手を合わせるとき、いつも感じることがあります。

それは、見えないものに対して恥ずかしくない自分でいたいという気持ちです。

お天道様が見ている、という感覚と、これはとても近いところにあると思います。

ワールドカップのロッカールームで選手たちがしていたことは、まさにこれだったのではないでしょうか。

カメラがあろうがなかろうが、来たときよりも美しくして帰る。

それが当たり前だから、当たり前にする。

そこには、見られているから、という打算がひとつもありません。

敵も味方も、同じ場所を使う仲間

サポーターの清掃についても、海外の人が漏らした言葉が心に残りました。

あるコメントには、こう書かれていたそうです。

日本のサポーターがスタジアムを掃除するのは、FIFAに求められているからではない。

自分たちが使った場所は、自分たちだけのものではなく次にそこを訪れる人たちのものでもある。

その考え方が根づいているからだ、と。

これは、和を重んじる心そのものだと私は思います。

試合のあいだ、ピッチの上では日本とオランダは敵同士です。

けれど一歩引いて見れば、同じスタジアムという場所を同じ時間に分かち合っている仲間でもあります。

試合前にはスタジアムの周りで、青いユニフォームとオレンジのユニフォームが入り混じりお祭りのように盛り上がっていたといいます。

勝ち負けの前に、この場を一緒に楽しむ縁で結ばれているのです。

自分さえよければいい、勝てばいいという発想なら、終わったあとの席は荒れたままでも構わないはずです。

けれど、次にここを使う誰かのこと、この場を一緒に作った相手のことを思えば、自然と手が動く。

和を重んじるというのは自分と他人とのあいだに線を引かず、同じ場を共に生きる者として相手を見るということなのだと思います。

そしてこの和の心は、相手の国の人たちの心も動かしました。

イタリアのある作家は、敗退後の日本のロッカールームを取り上げて、几帳面で他者へのリスペクトを忘れない日本人の精神性を称えたそうです。

「文化はお金では買えない」という言葉も、海外から寄せられていました。

地道で、丁寧で、誰に見せるためでもない行い。

それが、言葉も国も越えて、見ている人の心を打った。

ここに、私はとても大切なことが詰まっている気がするのです。

心を通わせることが、縁になる

ここからは、少し仕事の話に引き寄せて書かせてください。

私はWeb制作という仕事をしています。

ホームページを作ったり、ブログの記事を書いたりお店や会社の魅力をどう伝えるかを一緒に考えたりする仕事です。

この仕事を続けていて、つくづく思うことがあります。

最後にものを言うのは、技術そのものよりも、相手と心を通わせられたかどうかだということです。

たとえば、お客様から見えない部分の作り込みがあります。

表からは見えないコードの整え方、表示速度への配慮、後から自分たちで更新しやすいような設計。

こうした地道な部分は、納品した瞬間にはなかなか気づいてもらえません。

けれど、半年後、一年後に「やっぱり頼んでよかった」と感じてもらえるのはたいていこういう見えない部分なのです。

ここで手を抜こうと思えば、いくらでも抜けます。

お客様には分からないのだから、と。

けれど、それをしないかどうかは、結局のところお天道様の話に戻ってくるのだと思います。

見られていないところでどうふるまうか。

それが、その人の仕事の本当の質なのです。

そして、その地道さは、不思議と相手に伝わります。

言葉で「丁寧にやっています」と言うのは簡単です。

けれど、本当に丁寧にやっている人のところには、説明しなくても伝わる空気のようなものがあります。

そしてその空気を感じ取ったお客様は、また次の人を紹介してくださる。

ひとつの誠実な仕事が、次の縁を連れてくるのです。

私の仕事は、ありがたいことに、その多くがご紹介から生まれています。

派手な広告を打っているわけでも、安さで勝負しているわけでもありません。

ただ、目の前の一件を、誰が見ていようがいまいが、丁寧にやる。

その積み重ねが、人と人とのあいだに細い糸を結び、その糸が次の仕事へとつながっていく。

縁というのは、そうやって育っていくものだと感じています。

丁寧さは、いちばん遠回りに見えて、いちばん近い

世の中には、もっと効率のいいやり方があるのかもしれません。

見えないところは手を抜いて見えるところだけ派手に飾る。

安さで人を集めて数で勝負する。

そういうやり方もたしかに一つの方法ではあります。

けれど、私はそちらの道を選びませんでした。

遠回りに見えても、誰も見ていない場所こそ丁寧にやる。

その方が、結局のところ長く続く信用になると、これまでの仕事を通して感じてきたからです。

ワールドカップのあの清掃の光景は、一試合だけのパフォーマンスではありませんでした。

何十年も前から、勝っても負けても、毎回繰り返されてきた積み重ねです。

その積み重ねがあるからこそ、世界の人たちは「またやっている」と驚きそして敬意を抱くのです。

一度や二度ではなく、当たり前として続けること。

誰が見ていなくても、心を込めて場を整えること。

その姿勢が、いつか必ず、どこかの誰かの心に届く。

そして、その人との縁が、思いもよらぬ未来へとつながっていく。

これは、サッカー選手だけの話ではないと思います。

どんな仕事をしている人にも、どんな毎日を送っている人にも通じる話です。

お天道様は見ています。

あなたが誰も見ていないと思っているその地道な一手間を。

そしてその一手間は、巡り巡って、人の心を通わせ、新しい縁を結び、未来を作っていきます。

今日も私は朝の神社に手を合わせて、目の前の一件を丁寧にやることから始めようと思います。

派手ではないけれど、それがいちばん確かな道だと、ワールドカップの選手たちが、あらためて教えてくれた気がするのです。

あなたの仕事には、誰も見ていないけれど大切にしている一手間がありますか。

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